旧軍関連収集品
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〜書〜 |
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| 陸軍少将 福永 宗之助 |
| 福永少将は、日露戦争時の第二軍所属の野砲兵第一 旅団長を勤められた方です。 |
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| 第20師団長 室 兼次 陸軍中将 |
| 室中将は、陸士9期、陸大20期、最終職は、第20師団長 |
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| 陸軍教育総監 岸本 鹿太郎 大将 |
| 岸本大将は、陸士5期、陸大15期、岡山出身、最終の 現役職は、東京警備司令官。 |
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| 陸軍大将 黒木 為 |
| 黒木大将は、鹿児島県出身、父は、薩摩藩士。戊辰戦争に従軍。 維新後、御親兵隊に入り大尉となる。西南戦争に出征。日清戦争 では、第六師団長として威海衛の攻撃に参加。明治36年に陸軍 大将。日露戦争では、第一軍司令官として鴨緑江から奉天の会戦 まで連戦。戦功により男爵、のちに伯爵を授けられたが、長州閥 全盛期の為、元帥への道は、適わなかった。大正6年、枢密顧問 官となる。大正12年2月3日に逝去。 |
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| 左は、海軍中将 村田豊太郎の書。真ん中は、村田中将がラバウルの 空襲で戦死した海軍上等兵長の死を悼んで、昭和22年に書家の方に 書いていただいた書の様です。右は、陸軍大将 佐久間佐馬太の書 です。尚、村田中将は、鹿児島出身。昭和2年舞鶴工作部長、昭和7年 横須賀工廠長。昭和2年少将、昭和7年中将。造艦畑を歩んだ方です。 また、右の佐久間大将は、山口出身。明治7年熊本鎮台参謀長、明治 8年第6聯隊連隊長、明治29年近衛師団長、明治39年台湾総督。20 年男爵、28年子爵、40年伯爵。明治初期に活躍した方です。 |
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| 瓜生外吉 海軍大将(上)と旧 日本電力 社長 池尾芳蔵氏 (下)の手紙を軸にしたものです。 |
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| 上の画像は、瓜生大将の書です。瓜生大将は、明治期の海軍々人で加賀大聖寺藩 出身。海軍兵学校に入学するも卒業せず渡米し海軍学を修め、西南戦争に参加して 明治13年海軍少尉に任じられる、24年に大佐、日清戦争時は、仏大使館付武官で 参戦せず、日露戦争時に少将で第四戦隊司令官で仁川沖海戦でその名を上げる。 竹敷要港部司令官、佐世保鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを歴任し 男爵、大正元年に海軍大将。昭和12年11月11日、81歳で没している。 |
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| 上は、池尾芳蔵氏の手紙です。池尾氏は、昭和11年電気協会々長として電力 国家管理法案問題が持ち上がると軍部と真っ向から対決し。一時廃案に追い込 む程の手腕を見せました。昭和16年、日本発送電総裁となり、敗戦後は関西電 力相談役を勤め、昭和34年9月8日に81歳で没しております。 |
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| 海軍大将 山本英輔 の肉筆の書です。 山本大将は、鹿児島出身、海兵24期、 連合艦隊司令長官をされた方です。 山本權兵衞の甥としても有名です。下 の画像は、山本權兵衞 海軍大将(功 一級、伯爵、総理大臣)です。 |
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| 南次郎 陸軍大将の書です。南大将は、大分出身。 大正15年、第16師団師団長、昭和4年、朝鮮軍司 令官、昭和5年陸軍大将、昭和6年陸軍大臣。政治 家としても有な方です。 |
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| 下の書も 南 次郎 大将 のです。 |
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| 右から佐藤鋼次郎 陸軍中将の書、次が細野辰雄 陸軍少将の書 です。黒い点状の痛みのあるのが…海軍大将米内光政と思われ、 その左のものは、不明です。左端は、大塚堅之助 陸軍中将の書で す。尚、佐藤鋼次郎陸軍中将は、重砲畑の方です。愛知出身。明治 38年旅順要塞参謀長、明治40年重砲第五聯隊連隊長、明治45 年支那駐屯司令官、大正3年重砲兵監。また、細野辰雄陸軍少将は 歩兵第70聯隊連隊長、大正7年少将になられた方です。そして大塚 堅之助陸軍中将は、愛知県出身、歩兵畑の方で、大正15年歩兵第 33聯隊(三重県津)、昭和6年近衛歩兵旅団長、昭和9年陸軍中将、 留守7師団師団長、陸大25期です。 |
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| 米内光政 海軍大将 |
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| 右から鹿児島出身の陸軍大将 町田経宇(英堂)肉筆の書、その左の 2点は、堀内中将の書となっております。堀内中将ですが、陸軍に1 名、海軍に2名います。陸軍は堀内次郎中将で海軍は堀内三郎中将 と堀内茂札中将になります。左の2点は、久保隊長と有り、中将という 札が付いていました。そのまままま解釈しますと、昭和15年鉄道第6 聯隊連隊長、17年関東軍築城部長などを歴任した技術畑の人物の ようです。尚、先の陸軍の堀内次郎中将は、明治39年58連隊長、 明治44年23旅団長。そして海軍の堀内三郎中将は、大正7年砲術 学校校長、大正13年横鎮長官。もう一人の堀内茂札中将は昭和8 年球磨艦長をされた方です。 |
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| 町田 経宇 陸軍大将 |
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| 右はじは、福田海軍少将の書です。福田海軍少将は、青森出身。 昭和11年龍田艦長のあと、14年第三砲艦隊司令、15年漢口特 務部長、19年第24根拠地司令官。揚子江などの江上艦隊で活 躍した人物です。次の書は、建国の書軸で表装などの程度も良く、 絹に書かれているようです。続いて陸軍少将 古城胤秀氏の書で す。古城少将は鹿児島出身で、昭和7年から近衛第一、第二聯隊 連隊長を務められた方です。 |
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| 初代連合艦隊司令長官 伊東祐亨 元帥の書 伯爵・功一級・大勲位・元帥・海軍大将 初代連合艦隊司令長官 伊東祐亨の書です。日清戦争時は連合艦隊司令長官として旗艦 「松島」に乗り込み黄海海戦で清国の北洋艦隊を全滅させ、のち、 軍令部総長になっています。「碧海」は伊東元帥の号です。 |
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| 斉藤 実 海軍大将の横額2枚です。 |
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| 斉藤 実 海軍大将は、岩手県出身、明治31年厳島艦長 36年海軍次官 39年海軍大臣 大8年朝鮮総督 昭和7年内閣総理大臣 昭和11年2 月26日逝去。泉水は、斉藤大将の号です。 |
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| 海軍中将 東郷吉太郎の書 海軍元帥 東郷平八郎の甥にあたる方です。 |
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| 右が日比野正治 海軍中将の書。愛知出身、昭和6年日向艦長、 15年呉鎮守府長官・功三級。左の書が佐藤鋼次郎 陸軍中将。 愛知出身、明治37年重砲第五連隊長、大正3年重砲兵監。 |
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| 牛島貞夫陸軍中将の書。大正12年、歩兵第三聯隊連隊長、 昭和12年、第十八師団師団長となっています。裏にペン字で 、”昭和19年8月8日お泊り 帝国在郷軍人会副会長牛島中 将”とあります。おそらく地方の旅館で宿泊の際に書いていた だいたものと思われます。 |
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| 皇道派の領袖というべき荒木貞夫陸軍大将の書です。 青年将校の信望を集めた将軍として有名です。東京 裁判ではA級戦犯で終身刑。荒木大将の講演会「天地 正大会」の箱書き付 紙本 布表装 193cm×43cm 軸は木製です。 |
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| 皇道派の盟主的な存在で有名な荒木貞夫 陸軍大将の 書です。1877年5月生まれ、東京出身で陸士9期、陸大 19期首席卒業、憲兵司令官・陸大校長・第6師団長・教育 総監部本部長などを歴任後、犬養内閣で陸軍大臣、軍事 参議官。2.26事件で青年将校に同情的であり予備役に。そ の後、近衛内閣で文相、内閣参議官。敗戦後にA級戦犯と され終身刑となるが病気にて出所、1966年11月没。書に は、箱書きと由来書が一緒にありました。 |
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| こちらも荒木大将の書です。 東京出身 陸大主席恩賜組 功四級 男爵 大正8年 歩兵第二十三聯隊連隊長、大正 13年 憲兵司令官 昭和6年 陸軍大臣。 |
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| 左の書の大塚陸軍中将は愛知出身、歩兵第33連隊長、近衛第一 旅団長、昭和9年中将に昇進した方です。右の書の山田虎夫陸軍 中将は愛知出身、第6師団師団長、大正10年に陸軍中将なられた 方です。 |
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| 竹下勇海軍大将の肉筆書です。海軍兵学校十五期 海軍大学一期 第一艦隊長官 軍令部次長 連合 艦隊司令長官 呉鎮守府長官等を歴任されました。 |
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| 菱刈隆陸軍大将の書です。 鹿児島出身 昭和4年 陸軍大将、大正3年 歩兵第四聯隊連隊長 昭和2年 第四師団師団長、昭和5年 関東軍司令官。 |

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| 上下の色紙も菱刈隆陸軍大将のものです。 |
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| 嶋田繁太郎 海軍大将の色紙です。東京出身、山本五十六 大将と同期の海兵32期。海大は、13期。海軍大臣、軍令部 総長を務める。敗戦後は、A級戦犯として終身刑となるも1955 年に仮釈放後赦免され、1976年に死去。 |
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| 左から陸軍大将 大迫尚道の書、陸軍中将 茨木惟昭の書、 陸軍大将 福田雅太郎の書、海軍大将 八代六郎の書です。 |
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| 大迫陸軍大将、鹿児島出身、砲兵科、明治39年野砲兵監 第十八,十四師団長をへて軍事参謀官となる。 |
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| 茨木陸軍中将、和歌山出身、功三級、男爵、 歩兵第八旅団長、第六師団長。 |
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| 福田陸軍大将、長野出身、功三級、陸士9期、 関東大震災時の関東戒厳司令官として有名な 方です。下の色紙も福田大将の書です。 |
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| 八代海軍大将は、愛知出身、功三級、 明治42年に第一艦隊司令長官、大正 3年に海軍大臣、大正7年に海軍大将 です。 |
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| 第七代 台湾総督 明石元二郎 陸軍大将 福岡出身、陸士6期 台湾総督在任中は、水力発電所を設置し日本人と台湾人 が均等に教育を受けられるよう法を整備し華南銀行を設 立した事で有名。日露戦争においては、機密工作により ロシア革命を支援し、日本の勝利に大き く貢献した蔭の 立役者でありました。死後は大将の遺言により、遺体は 台湾に埋葬され、2000年に国民党の支那人に荒らされた 墓を現地の有志により改葬されました。 |
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| 大西 海軍少将の肉筆扇面です。 大西次郎 海軍少将は、三重県出身。海大18期です。 昭和3年:古鷹艦長、昭和4年:那智艦長、昭和6年:赤城艦長、 昭和6年:加賀艦長、昭和7年:横須賀航空隊司令と、艦長の経 歴の長い方ですが航空畑の方になっています。 |
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| 林仙之陸軍大将の色紙です。熊本出身で 陸大20期。大正8年:歩兵第三聯隊長、 昭和2年:陸大校長、昭和6年:第一師団長 |
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| 加藤 寛治 海軍大将の直筆色紙です。 |
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| 海軍大将 加藤 寛治 海兵18期(首席)、連合艦隊司令長官、軍令 部総長、軍事参議官等の要職を歴任。日露戦争では、戦艦”三笠” の砲術長として日本海海戦を戦いました。海軍砲術学校校長、第五 戦隊司令官、海大校長など歴任後、ワシントン軍縮会議主席随員な どを経て軍令部総長となる。ロンドン軍縮では、巡洋艦対米7割を強 硬に主張した事で有名。浜口首相や財部海相と対立、統帥権の独立 を主張し抗議の辞任で海軍部内にしこりを残しました。米内光正など 条約派に対し、伏見宮・末次信正らと共に艦隊派の中心人物の一人 でありました。1939(昭和14)年4月9日、静養先の熱海で死去。 |
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| 小笠原 長生 海軍中将(子爵)の直筆色紙です。 |
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| 東京出身の海軍中将(子爵)。 |
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| 唐津小笠原家の最後の藩主長行の後嗣になり、事実上、 最後の”お殿様”として唐津に尽くした人物。まさに唐津の 貴公子です。 長生は慶応3年(1867年)江戸八重洲町の 老中役邸で生まれ、父は老中職にあった小笠原壱岐守長 行(いきのかみながみち)、母は儒者 松田迂仙(まつだう せん)の末娘美和。鳳凰・鉄桜・金波楼主人と号する。 海軍大学校教官・海軍軍令部参謀・宮内省御用掛等を歴 任。日清・日露両戦役に従事した。また文筆に長じ、『東郷 元帥詳伝』『東郷元帥金言集』『海戦日録』等多くの著があ る。昭和33年(1958)歿、90才。 |
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子爵 川村景明 陸軍元帥の書です。 |
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| 川村景明 元帥は、御存知のように功一級金鵄勲章の受勲者です。 嘉永3年(1850)2月26日〜大正15年(1926)4月28日。鹿児島出身。 父は、薩摩藩士。薩英戦争と戊辰戦争に従軍し、維新後、陸軍へ。 日清戦争では、近衛歩兵第一旅団長として台湾に出征。日露戦争時 では、第十師団長。明治38年に陸軍大将となり鴨緑江軍司令官として 奉天会戦で活躍しました。明治40年、戦功により子爵となるその後は 東京衛戍総督となり、大正4年に陸軍元帥となりました。 |
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島村 速雄 海軍元帥の書です。 |
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| 島村 速雄 海軍元帥 高知県出身(海兵7期、海大甲種1期) 連合艦隊参謀長として日本海々戦を戦い、連合艦隊司令長官 東郷平八郎と作戦参謀 秋山真之の其々の能力を思う存分に 発揮させ、日本を亡国の淵から守り抜いた寡黙にして功を誇らぬ 武人。海軍きっての国際通と言われ、その清廉な人柄が民間に も人気高かった提督です。村上君宛の為書です。 |
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| 寺内正毅 陸軍元帥の書 |
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| 寺内正毅 陸軍元帥 伯爵、従二位、功一級 長州藩出身、戊辰戦争では御盾隊隊士として従軍、箱館五稜郭 まで転戦する。その後、陸軍士官となる。西南戦争で右手の自由 失う。フランスへ留学後、陸軍士官学校長、教育総監、参謀次長 などを歴任。第1次桂内閣の陸相となり、日露戦争の勝利に貢献 する。第2次桂内閣でも再び陸相をつとめた。明治42年10月26日 ハルビンにて伊藤博文初代韓国総監暗殺後、第2代韓国統監の 曽禰荒助が辞職すると明治43年5月30日、陸相のまま第3代韓国 統監となる。そして明治43年8月22日の日韓併合を断行しました。 明治43年10月1日、朝鮮総督府が設置されると陸相を辞任して、 初代朝鮮総督に就任しました。大正5年10月19日に内閣総理大臣 に就任し寺内内閣を組織する。時は、まさに第一次世界大戦の真っ 只中であり、寺内首相は、大正7年8月2日にシベリア出兵を宣言し たが、米騒動の責任をとって同年9月21日に総辞職しました。 大正8年11月3日に逝去されています。尚、寺内寿一陸軍元帥は、 息子に当たります。親子で陸軍元帥を極めたのは、凄い事だと思い ます。寺内寿一陸軍元帥は、南方軍総司令官で敗戦を迎え、昭和 21年6月 シンガポールのレンガムで拘留中に病死されています。 |
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| ありし日の朝鮮総督府 |
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| 寺内元帥は、陸軍大臣を二度務めています。 どちらかは、判りませんが…その時の大臣の 陸軍省在職記念で関係者に配布した煙草入 れと思われます。 |
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| 三越製・一照刻 と読めます。 |
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| 畑 俊六 陸軍元帥の書(中将時代の書) |
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| 畑 俊六 陸軍元帥 福島県出身、功一級、陸大首席 東京府立一中から陸士へ、明治33年に陸士を卒業。日露戦争を 中尉で参戦し負傷する。ドイツ駐在武官、参謀本部作戦班長、 参謀本部作戦課長兼軍令部参謀・航空本部長など中央の要職を 歴任する。昭和11年、台湾軍司令官。翌12年に陸軍大将に昇進 し軍事参議官・陸軍教育総監を兼任。昭和13年に中支那派遣軍 司令官に就任し武漢作戦を指揮。昭和14年8月に成立した阿部 信行内閣で陸軍大臣に就任。次の米内光政内閣でも陸相として 留任。しかし、天皇から内閣への協力を厳命されていたにも関わら ず、単独辞職して米内内閣の瓦解の原因を作る。 その後、支那派遣軍司令官、昭和19年に元帥に列せられる。 東京裁判では、A級戦犯として起訴され終身刑に。 昭和29年に仮釈放となる。その後、偕行社会長を務めた。 昭和37年5月10日、逝去。尚、陸軍大将で陸軍省軍務局長や 関東軍司令官を歴任した畑 英太郎 氏は、兄にあたります。 |
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| 畑俊六元帥の出した葉書です。日付印が無いので何年か 判りませんが、文面の最後に南支那派遣軍11月26日とあ りますので、昭和13年に松井岩根大将の代わりに中支那 派遣軍司令官となり、武漢作戦を指揮していますので、そ の時期に出した手紙と思われます。 |
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| こちらも畑閣下の支那派遣軍司令官時代に 出された直筆書状の軍事郵便を裏打ちした 物です。 |
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| 松井 岩根 陸軍大将の書 |
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| 松井 岩根 陸軍大将 愛知県出身、功一級、陸大首席 上海駐在武官、歩兵第三十九連隊長、ハルピン特務機関長 、歩兵第三十五旅団長参謀本部第二部長、第十一師団長、 ジュネーブ会議全権委員、軍事参議官、台湾軍司令官、 上海派遣軍司令官、中支派遣軍司令官を歴任。 親中派の松井大将は、謂れ無き”南京大虐殺”の汚名を着せ られ戦犯として処刑された悲劇の将軍です。昭和15年2月、 日中戦争における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市 伊豆山に興亜観音を建立した事でも有名な方です。 日中戦争前に予備役であったが、第二次上海事変が勃発する と軍務に復帰し、上海に派遣される。参謀本部と政府は、上海 事件の不拡大を望んでいた。しかし松井は、上海近辺に限定さ れていた権限を逸脱し当時の中華民国の首都南京を攻撃・占 領した。これで中支那方面軍司令官を解任され、本国へ呼び戻 される。 この南京占領の際に中国側が後に捏造する事件”南京大虐殺 ”があったとされ、この責任を敗戦後に問われ戦犯となる。昭和 23年12月23日に巣鴨プリズン内で絞首刑で刑死する。大将は 、孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援した事 で良く知られています。昭和8年、大亜細亜協会の設立発起人 となり(後に会長に就任)。同年8月には、台湾亜細亜協会を設 立。また蒋介石とも親好が深く、蒋が政治的に困難な時に、時 の首相・田中義一氏との会談を取り持ち事態を好転させたのも 松井大将であります。また大将は、軍紀に厳しいことで知られ、 昭和3年に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍 河本大作の厳罰を要求した事も良く知られています。 |
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| 林 銑十郎 陸軍大将(首相・陸軍大臣) 石川県出身。父は、加賀藩士。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。 日露戦争に出征。陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官等を 歴任し、昭和7年(1932)陸軍大将。斎藤内閣と岡田内閣では陸相とな る。昭和12年2月に首相に就任する。政党を除外し、祭政一致を掲げた 内閣であったが、議会での審議が滞り、議会を解散。総選挙で野党が 圧勝した為、5月に内閣総辞職した。4ヶ月間の短命内閣でありました。 |
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| 左の書は、大角 岑生 海軍大将。右は、末次信正 海軍大将。 |
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| 大角 岑生 海軍大将 愛知県出身、海兵24期 、海大5期、海相、海軍次官、 海軍軍務局長横須賀鎮守府司令長官、第ニ艦隊司令 長官 日露戦争では、閉塞隊員として旅順口閉塞作戦に参加。 ドイツ駐在、フランス駐在などを経て、パリ講和会議に随 員として出席。軍務局長など歴任後、加藤(高)内閣に海 軍次官として軍政面に手腕を発揮。第ニ艦隊司令長官、 横須賀鎮守府司令長官などを歴任後、犬飼内閣の海軍 大臣として活躍する。五・一五事件で軍事参議官となるも 、続く斉藤内閣で岡田海相が辞任すると再び海相に就任 。海相としては、統帥権干犯問題に人事、機構改革な どで艦隊派寄りの政策をとる。岡田内閣に留任、二・二六 事件では、内閣が総辞職するまで海相を務める。靖国神 社第一次合祀祭臨時大祭委員長のあと、寺内寿一陸軍 大将とともに独伊に出張。帰国後、飛行機事故で殉職す る(享年66歳)。 |
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| 末次信正 海軍大将 山口県出身。海兵27期、海大7期 内相、軍令部次長、連合艦隊司令長官、大政翼賛会 中央協力会議議長 第1潜水戦隊司令官、教育局長などを歴任後、軍令部 次長に就任。艦隊派の中心人物の一人として、ロンドン 海軍軍縮条約には加藤軍令部長らと反対。その後、連 合艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを歴任 。予備役編入後、近衛内閣の内閣参議、ついで内相に 就任する。大政翼賛会中央協力会議議長。東亜建設 連盟会長などを歴任する。 |
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| 有栖川宮熾仁親王の肉筆書の掛軸です。 |
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| 有栖川宮熾仁親王 皇族、大勲位功二級、海軍元帥 有栖川宮熾仁親王は、天保6年(1835年)に有栖川宮家 の第一王子として京都に生まれました。17歳で孝明天皇 の妹 ・和宮と婚約しました。しかし文久2年(1862年)に 徳川幕府との政略結婚で皇女・和宮は、十四代将軍家茂 に降嫁。その後、倒幕を決定づけた戊辰戦争が慶応4年 (1868)1月勃発すると、熾仁親王は”東征大総督”に任 ぜられます。明治10年(1877年)の西南戦争では、”征討 総督”となって明治政府軍の最高指揮官を務めましたた。 日清戦争では、陸海全軍の参謀総長を務めました。明治 28年(1895年)61歳で没。 |
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| 塩沢 幸一 海軍大将の肉筆書の掛軸です。 |
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| 塩沢 幸一 海軍大将 功二級 従二位 明治16年 3月5日生 長野県出身 海兵32期・海大13期 山本五十六元帥と海兵同期。海大卒業後は、 主に軍令部勤務畑を歩む、在英国大使館附 武官など英国勤務が二回あります。艦長職は、 殆ど無く巡洋艦”古鷹”のみ。第一艦隊参謀長、 連合艦隊参謀長、第一遣外艦隊司令官、鎮海 要港部司令官、海軍航空本部長、舞鶴要港部 司令官、第五艦隊司令長官、佐世保鎮守府司 令長官、海軍艦政本部長、横須賀鎮守府司令 長官などの要職を歴任。 昭18年11月17日 歿(享年60歳)。 |
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| 陸海軍大将題字 肉筆の巻物です。何か本の題字 に書いてもらったものを、表装して巻物とした印象が あります。 |
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| 左の護国は、奈良武次 陸軍大将 砲兵栃木出身 昭和3支那駐屯軍司令官天皇陛下の信任厚く昭和 天皇武官長を勤められた方です。右は、本庄繁 陸軍 大将です。歩兵科、兵庫出身。張作霖顧問 第10師 団長 侍従武官長 満州事変時の関東軍司令官とし て有名な方です。 |
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| 左の横文字は、川島義之 陸軍大将。歩兵科、愛媛出身。 陸大20期恩賜、昭和5年:第三師団師団長、昭和10年: 陸軍大臣を勤められています。右の孝生=こうせい=光政 と判読するそうです。米内光政 海軍大将は、岩手出身 海大12期、功一級、大正13年:戦艦”陸奥”艦長、昭和11 年:連合艦隊司令長官、昭和19年:海軍大臣。 |
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| 伊藤博文公の肉筆書の掛軸です。 白梅図は、川村雨谷が書いています。 |
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| 川村雨谷
司法官・南画家。名は応心、字は広卿、別号に休翁・無生居士等。 明治初年から司法省に奉じ、大審院判事に至る。南画・俳画を能く した。明治39年(1906)歿、69才。 |
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| 伊藤博文
政治家。山口県生。本姓は林、幼名は利助、 のち俊輔、博文は諱、号に春畝・滄浪閣主 人。初め松下村塾に学び、木戸孝允に従い 尊王攘夷運動に参加。最初の内閣総理大臣 ・枢密院議長・韓国統監等を歴任。詩文及び 書を能くした。明治42年(1909)ハルビンで 客死、69才。 |
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| 愛新覚羅 毓峨の肉筆書の軸。 愛新覚羅氏は、満州に存在し た海西女真族(旧満洲民族) の一部族名で、清朝を打ち立 てた家系です。 |
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| 愛新覚羅 毓峨は、支那の画家。愛新覚羅溥カンの 四子。清朝九代咸豊帝の皇弟・惇親王奕の曾孫。 北京市に生まれ、幼い時より父の溥?や叔父の画家 ・溥カンに師事し山水画を修める。南開大学卒業後 、北京市文史資料館の館員を務めながら画業に勤 しむ。現在、中国老年書画研究会会員。花鳥画に 優れた作品が多く、牡丹を題材にしたものを得意と している。柔らかい画風であり国外の人気も高い。 |
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| 愛新覚羅 溥儀は、ラストエンペラーと言った方が判り やすいかも知れません。清朝の第12代皇帝 宣統帝 であり”最後の皇帝”として知られる。清朝崩壊後に 皇軍の支援を受け満州国の執政・満州国が帝政に移 行すると皇帝として即位、康徳帝(敗戦まで約11年) を名乗られました。また字は、浩然と名乗られました。 日本の敗戦近くにソ連の進攻で溥儀たちは、首都の 新京を放棄して、朝鮮にほど近い通化省臨江県の 大栗子に避難していましたが敗戦の2日後、8月17日 に国務院が満州帝国の解体を決定、8月18日には 大栗子で満州帝国解体を自ら宣言するとともに満州 帝国皇帝を退位しました。退位後、ソ連軍に捕まること を避けて日本へ逃亡する途中、奉天の飛行場でソ連 軍に捕らえられました。その後ソビエト連邦領内に移送 され、ソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所 に収監されました。ソ連の強制収容所に収監された翌 年の昭和21年に開廷した東京裁判でソ連側の証人と して出廷させられ、ソ連に有利な証言を強要されました 。その後、1950年に前年建国された中華人民共和国へ 身柄を移され、戦犯として撫順とハルビンの政治犯収容 所に弟の溥傑とともに収監されました。一市民として 1959年12月14日に、当時の劉少奇国家主席の出した 戦争犯罪人に対する特赦令を受け、模範囚として特赦 された。釈放の数年は、リハビリを兼ねて北京文史資料 研究委員会に勤務しました。その後、自らも上流階層出 身であるがゆえに溥儀に親近感を持ち、溥儀が政治犯 収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を 図っていた周恩来首相の後援を受け、1964年には政治 協商会議全国委員に選出されました。しかしその後、中 国共産党内部の権力闘争に端を発する文化大革命の 波が中国全土を吹き荒れる中、癌の治療を”元皇帝であ る”との理由で受けられず1967年に死去しました。また 文化大革命により粛正されたという説も存在しているよう です。溥儀の墓は、北京郊外の八宝山墓地に埋葬されま したたが、後年、溥儀は生前”皇帝であったことを誇りに 思っていた”との李淑賢夫人の証言が明らかになると、 改革開放の時代の空気と相俟って、1995年皇帝として 改葬することになりました。現在の墓所は北京郊外の易 県にある、清朝の歴代皇帝の陵墓のある清西陵の近くの ”華龍皇園”に新たに”献陵”という陵墓が作られてあるそ うです。そして2004年には、”愍皇帝”の謚号と”恭宗”の 廟号が贈られました。しかしこれらは、公式に認められたも のではなく愛新覚羅家の遺族などの関係者から承認され ているものでもありません。改葬に関しても愛新覚羅家の 遺族からの反対も受けているそうです。 |
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| 仁田原陸軍大将と松川陸軍大将の書、絹本です。 |
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| 仁田 原重行 陸軍大将 福岡出身。陸大四期、功三級。大正5年:近衛師団長 大正6年:東京衛戍総督。”大正4年7月4日官舎にて”と記載があります。 |
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| 松川 敏胤 陸軍大将 宮城県出身。 陸大恩賜功二級、 大正5年:東京衛戍総督大正7年:朝鮮軍司令官。 ”大正4年6月16日官舎にて”と記載あります。 |
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| 左から八代六郎海軍大将、岡市之助陸軍中将 、二宮第十六師団法官部長の絹本三枚です。 二宮法官部長は、経歴等は、不明です。 |
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| 八代六郎 海軍大将、愛知県出身。男爵 功三級 大正3年:舞鶴鎮台長官から海軍大臣。その時に 書かれた物のようです。 |
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| 岡市之助 陸軍中将、京都出身、陸大4期。功3級 男爵 大正3年:第三師団師団長から陸軍大臣に就任。朝鮮に 2個師団設置を決定した方です。 |
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| 福田雅太郎 陸軍大将の書 |
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| 福田雅太郎 陸軍大将。長崎出身 陸大9期 功3級 明治42年:歩兵砲第38聯隊連隊長、明治43年:歩兵 砲第53聯隊連隊長、大正6年:第五師団師団長、大正 10年:台湾軍司令官。印に陸軍大将が押されています。 |
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| シルクの布に書かれた小松宮彰仁親王の書です。小松宮様は、 陸軍元帥、大将、大勲位功二級、日赤、大日本武徳会総裁を勤 められました。 |
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| 東郷平八郎 海軍元帥 元帥・海軍大将 従一位 大勲位功一級 侯爵 余りに有名な東郷元帥です。略歴は、割愛します。 |
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| この下も東郷平八郎元帥直筆の 肉筆画帖です。東郷元帥と親交 のあった日本画家栗田真秀旧蔵 の画帖です。画帖の最初に東郷 平八郎元帥の揮毫、帖末に西田 徳之助という実業家の方の揮毫 があるだけで、それ以外は空白 でした。 |
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| 敗戦時に第11方面軍(仙台)司令官だった藤江恵輔 陸軍大将 の中将時代の色紙に記された書です。藤江閣下は、開戦時は、 陸軍中将で西部軍司令官でした。 陸士18期、陸大26期 (砲兵科出身) 昭和 9年 8月 少将 野砲校幹事 昭和12年 8月 憲兵司令官 昭和12年11月 中将 昭和13年 7月 第16師団長 昭和16年 4月 西部軍司令官 昭和18年 2月 大将 昭和19年 3月 東部軍司令官 昭和20年 3月 予備役 昭和20年 6月 召集 第11方面軍司令官 |
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| 塩沢 幸一海軍大将は、長野県出身で長野 海兵32期、 海大13期 です。山本五十六元帥や嶋田繁太郎大将など と同期の方です。色紙の書の記載年月が昭和13年9月に なっていますので、中将の頃、第五艦隊司長官だった時だ と思われます。 昭和3年12月 海軍少将(在英大使館付武官)、軍令部 〜連合艦隊参謀長や鎮海警備府司令官を経て、昭和4年 11月 海軍中将、その後は、航空本部長や舞鶴要塞司令 官、佐世保鎮守府司令長官、第五艦隊司令長官を経て、 昭和14年11月 海軍大将。横須賀鎮守府司令長官などを 歴任し、昭和18年11月17日 歿(享年60歳) |
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| 白川義則 陸軍大将の送った葉書です。送り先は、長谷部陸軍大佐 との事です。白川大将は、田中内閣の陸軍大臣を勤められた方です が、上海派遣軍司令官として昭和7年4月29日、上海・虹口公園で の天長節祝賀会に出席した時に非道なる朝鮮人の爆弾テロに遭い 重傷を負いました。5月26日、上海兵站病院で爆弾テロで受けた傷で 死去されています。 白川 義則 陸軍大将(明治元年12月12日〜昭和7年5月26日) 愛媛県松山出身、男爵、陸士1期、陸大学12期 |
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| 白川大将の書かれた色紙です。 |
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| 一戸 兵衛 陸軍大将の書です。 |
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| 陸軍大将 一戸 兵衛 青森県出身、従二位勲一等功二級 西南の役・日清戦争に従軍。日露戦争では乃木希典元帥 の下で旅順攻略に参加。退役後は学習院院長・明治神宮 宮司・帝国在郷軍人会会長などを歴任。 昭和6年(1931)歿、享年77才。 |
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| 開戦時の軍令部総長を務めた永野 修身 元帥海軍大将 の書です。コレクターの方がしたのか当時集められた方 が切り取ったのか、何かの和紙に書いて頂いたものを そこだけ切り取ったもののようです。 |
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元帥海軍大将 永野修身 高知県出身、海軍兵学校28期。 正三位・勲一等・功五級。(明治13年6月15日〜 昭和22年1月15日) 昭和22年1月5日、A級戦犯として東京裁判中に 獄中死。昭和53年に靖国神社に合祀される。 |
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| 下は、別のものですが 永野元帥の書です。 |
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| 敗戦後は、A級戦犯とされ巣鴨プリズン内で 肺炎で獄死されますが敗戦前までは、元帥 に列せられ帝国海軍史上、一人で海軍三顕 職(海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部 総長)を全て経験した唯一の提督として評価 と人気は低いものの、絶頂を極めた稀有な 軍人と言える一人の方と思います。 |
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| 明治44年2月13日消印封筒入り毛筆23行 |
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| ◆岡田啓介 軍人・政治家。福井県生。海軍大将・軍事参議官となり、 のち海相・首相となる。二・二六事件の時、首相であった が難を逃れた。内閣総辞職後重臣となり、首相の銓衡に あたった。昭和27年(1952)歿、84才。 |
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| 岡田啓介の肉筆書簡6通です。すべて和紙に毛筆墨書。 3通は封筒入り、残り3通には封筒がありません。日付の 確認できる最も古いものが装甲巡洋艦『春日」艦長時代 の明治44年。新しいものは、終戦直後の昭和21年で、 この封筒には進駐軍の検閲印があります。 |
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| GHGの検閲印が残っています。 |
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| 今も郷里の福井県福井市には 銅像が故郷を見守っています。 |
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| 影佐 禎昭 陸軍中将と渡 左近 陸軍中将 の連名直筆色紙 |
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| 墨書。昭和14年2月25日、於赤坂錦水亭。市販の 色紙ではなく、色紙様の料紙を切り取って書かれ ています。 |
| ◆影佐 禎昭 陸軍中将(略歴) 明治26年生まれ。砲兵科、士候26期、陸大35期恩賜。広島県出身。 陸大の後、東京帝国大学政治科に学んだ異色の陸軍軍人。陸軍きっ ての中国通として一際目立つ存在で大佐昇進と共に陸軍参謀本部 支那課長、、第8課(謀略課)初代課長、軍務課長を歴任し日中戦争 初期の戦争指導に当たった。民間人里見甫を指導し中国の地下組織 ・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買 を行う里見機関を設立。中国で阿片権益による資金は関東軍へ流れ たという。また板垣征四郎陸軍大臣の有力なブレーントラストとしても 知られ、興亜院創設に至るまでの紛糾に際しての巧妙な処理等で名を 挙げた。昭和14年、日中戦争の戦局打開のため、蒋介石と対立した 国民党親日派の汪兆銘に協力し汪政権樹立を計画。影佐を長とする 通称「梅機関」(影佐機関)工作を進め成功。同年、少将に昇進。 支那派遣軍総司令部付となり、翌15年4月、汪政府樹立後は汪政府の 軍事最高顧問に就任。しかし東条英機首相から「影佐は中国に対して 寛大すぎる」と判断され、昭和17年北満国境の第7砲兵司令官へ転任。 同年中将、翌18年にラバウルの第38師団長へ転任。米軍がラバウルを 越えて日本本土へ向かったことから、孤立状態の当地で終戦を迎えた。 昭和20年12月に中国政府から戦犯指名を受け身柄を要求されたが 肺結核のため裁判に至らず、昭和21年5月復員し入院。病状の悪化によ り、昭和23年9月10日 55歳で獄死。娘は陸軍少佐時乗武雄、谷垣専一 元文相に嫁ぐ。谷垣禎一前財務相は孫。名前の一字は、影佐の名からと ったもの。 (↓下は、少将時代の影左閣下です。) |
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| 伝記に浅田百合子『日中の架け橋―影佐禎昭の生涯』 (新風社、平成15年)、世話人会『人間影佐禎昭』(非売 品、昭和55年)がある。 |
| ◆渡 左近 陸軍中将(略歴) 東京出身、歩兵科、士候27期、陸大38期。元老院議員 渡正元の子。参謀本部支那課長兼大本営支那課長、 第13軍高級参謀、第1歩兵団長、独立混成第23旅団長 、ビルマ方面軍司令部附、独立混成第29旅団長などを 歴任。敗戦時は第15師団長。昭和26年4月1日 歿。 |
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| 国民政府最高軍事顧問 影佐 禎昭 陸軍中将の 直筆色紙 |
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| 墨書。色紙の大きさは270mm x 240mm。 |
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| 有坂 ショウ蔵 海軍造兵中将(工学博士) の書です。弥生式土器を発見した事でも 有名な東京帝大の工学部教授でもありま した。帝國酸素(日本エアー・リキ-ド)の 社長にもなられておりました。 |
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| 真崎甚三郎 陸軍大将の直筆揮毫画帖メクリ |
| ◆真崎甚三郎 陸軍大将 明治9年(1876年)〜昭和31年(1956年)。軍人。陸軍大将。 皇道派の中心人物。佐賀県出身。陸士卒。日露戦争に従軍 。陸大卒。陸士校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、 安藤輝三、磯部浅一らを輩出。台湾軍司令官など経て参謀 次長に就任、荒木陸相とともに皇道派を形成。勢力伸張を図 る。ついで教育総監に就任、天皇機関説問題では国体明徴 運動を積極的に推進。林陸相による反皇道派人事により罷免 され、これが相沢事件、二・二六事件の誘因となる。二・二六 事件では、安藤、磯部らに共感を示しつつ、収拾に努める。 事件後、「反乱幇助」の容疑で軍法会議にかけられるも無罪。 戦後、戦犯として逮捕されるが不起訴。 |
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| 稲垣孝照 陸軍中将の直筆色紙(第3師団留守司令官) |
| ◆稲垣孝照 陸軍中将 士候12期。愛媛県出身。 歩兵第10旅団長、陸軍士官学校長、 第3師団留守司令官などを歴任。 |
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| 小磯 国昭 陸軍大将の書です。 |
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| 書末尾に「熊平仁兄清嘱」との書き入れがあり 小磯国昭の共箱作品はほとんど見かける事の 無い大変稀少なものとの事です。 |
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| ◆小磯 國昭 陸軍大将◆ (略歴) 第41代内閣総理大臣、陸軍大将 従二位・勲一等・功二級 明治13年3月22日〜昭和25年11月3日 栃木県宇都宮市出身、陸士12期、陸大22期22期 陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・ 朝鮮総督などを歴任。昭和13年7月29日に予備役 。東條内閣の後を受けて昭和19年7月22日に内閣 総理大臣就任するが、僅か8ヵ月半で総辞職。敗戦 後、A級戦犯として指名され東京裁判で終身禁固刑 昭和25年11月3日、巣鴨プリズン内で食道癌により 死去。享年71歳でありました。 |
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| 聖将と言われた乃木 希典 陸軍大将が旅順にて したためた直筆の軍事郵便を軸装したものです。 |
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| 乃木 大将が釜山在住の郡司大佐に宛てた軍事郵便です。 「第三軍第五野戦局」の消印が押されており、「陸軍恤兵 部」の封筒が使用されております。 |
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| ◆乃木 希典 陸軍大将◆ (略歴) 従二位勲一等功一級伯爵 1849年12月25日 − 1912年9月13日 長州藩士。山口県出身。 吉田松陰に心服し、叔父・玉木文之進の門に入る。 戊辰戦争で活躍。日清戦争で第一旅団長として出征。 第三代台湾総督に就任するが、職務失敗を理由に辞 職してしまう。日露戦争では第三軍司令官として旅順 攻略を指揮。戦を指揮する軍人としてよりも、その高潔 なる人格に国内外から高い評価を得て聖将と呼ばれま した。明治帝の崩御に後、大葬の夕に、妻とともに自刃 して殉死した事でも有名になりました。 ≪辞世≫ うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり |
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| 山本五十六 連合艦隊司令長官 直筆の原稿用紙一枚半(昭和17年10月) |
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| 原稿用紙にペン書されたものです。差出人は、 山本大将で受取人は、目黒真澄氏となってい ます。17年10月初と記載されています。ガダル カナルの攻防戦を行っていた厳しい時期です。 |
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| 下は内容の解説となっています。 |
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| ◆山本 五十六 元帥海軍大将◆ (略歴) 元帥海軍大将、正三位・大勲位・功一級 明治17年4月4日〜昭和18年4月18日 新潟県長岡市出身 昭和18年4月18日、ブーゲンビル島上空 にて視察の為一式陸攻に座乗中、暗号解 読で待ち構えていた敵P-38ライトニングの 攻撃を受けて戦死する。歴代の聯合艦隊 司令長官で唯一の戦死者となりました。 |
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中沢佑 海軍少将時代・家族へ
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| 中沢祐海軍中将の大佐・少将時代の手紙類です。御存知のとおり中沢 少将(中将)は、海軍の中枢にあり要職を歩んだエリート提督です。 |
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中沢大佐宛て・封書八通の内中身有り三通・葉書(軍事郵便・仏印)一通。 |
| <略歴> 長野県出身・海軍兵学校43期、海軍大学26期 昭和9年3月10日 軍令部作戦班長 昭和11年12月1日 海軍大佐 連合艦隊首席参謀 昭和12年12月1日 軍令部第二課長 昭和14年11月5日 軍令部作戦課長 昭和15年10月15日 巡洋艦”足柄”艦長 昭和16年7月25日 第五艦隊参謀長 昭和17年11月1日 海軍少将 昭和17年11月5日 出仕 昭和17年12月10日 人事局長 昭和18年6月15日 軍令部第一部長 昭和19年12月20日 第21航空戦隊司令官 昭和20年2月5日 台湾空司令官 昭和20年5月10日 兼高雄警備府参謀長 兼第一航空艦隊参謀長 昭和20年6月24日 免兼 昭和20年11月日 海軍中将 昭和21年4月30日 予備役 |
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戦時資料 |
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| 水雷艇鴻進水記念絵葉書、新舞鶴のスタンプが入り実際に 投函されたものです。 |
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| こちらは、明治期に松本市長に送られた 招待状です。 |
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| 明治38年4月の軍人遺族記念日大会の招待状です。 榎本武揚は、元幕臣で幕府艦隊を率いて五稜郭で戦 い、官軍に降伏し明治政府下では駐ロシア公使として 樺太千島交換条約を締結、北海道開発に尽くすなど、 諸大臣を歴任し政治家として活躍した人です。 |
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| 昭和5年3月の手紙です。挨拶状ですね。 |
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| 明治期の物でしょうか。大阪の第四師団の副官よりの手紙です。 …達筆です(笑)。 |
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| 平時は、各連隊区の職業軍人の名簿が関係者に配布 されておりました。 |
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| こちらも、当時の松本市長と 市役所の幹部に送られ軍事 郵便です。送り主は、工兵 大尉さんです。 |
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| これは、良き時代の兵士の小遣帳です。微笑ましいの は映画やお菓子代などが給料などの記載の中に見受 けられ事です。戦時下でない頃の召集現役兵の姿が 目に浮かびそうです。 |
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| 長野県出身の海軍将兵の方の海恤によ るつまり、海上に於ける戦死・戦傷によ る一時金とが支払われます。昭和17年1 月の扱いで海軍省より三十円が恤兵金 として支払われております。現地の長野 連隊区司令部の恤兵金出納官吏の陸軍 少佐の名前と代筆でしょうか陸軍主計少 尉のゴム印と認め印が押されています。 この方は、戦死らしく受取人名は、女性 となっております。奥様か、母親、姉妹か と推察します。 |
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| 逓信省(今の郵政省)の保険通帳です。定期的に保険料を 納めております。契約人が海恤の方で受取人を左上画像の 女性になっております。右上段の一番右にあるのは、領収 書で支給された三十円を海恤の為に寄付したています。 受け取っているのは、当地の中野警察署になっております。 |
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| 海軍で戦死された方の娘さんでしょうか… 昭和19年の青年学校一年生の皆勤賞の 賞状です。 |
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| こちらの手紙も興味深いものです。 広島の第五師団の師団長に何等 かの陳情に行った方に、持参され た献上品を返却する旨の内容を、 師団長の副官が昭和8年12月に 送った手紙です。 |
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| この書類は、功績名簿です。初めに赤印で第二次 第一 次歩十留とあります。歩兵第10連隊第11中隊の上等兵 にに関する勲功を中隊長が上申している書類です。昭 和7年より9年までの兵役に対して三項目で申請してい ます。一つは、功労。次は、勲労で137名中第18位、次 に勲功で182名中第8位とされてます。夫々、留守部隊 業務、外地(朝鮮)での警備業務に分けて申請してます。 |
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| 左は、開戦の約5ヶ月前に中隊長名で運転免許証を証明してる。 上記の2枚の画像は、面白い事に部隊本部(大隊か連隊)で預 かった運転免許証は、貸し出す事が許可できないので必要であ れば中隊で証明書を作るのは、構わないと言われて左上の証明 を中隊長名で作成したと言う内容です。 |
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| 昭和15年3月の手紙です。日米開戦の前年の手紙ですが 南支那派遣軍の一部隊長がガリ版刷の手紙を部下将兵の 父兄親族に近況を知らせている文面です。日米戦のような 被害も無く、毎日の戦闘も一人の戦死者もなく連戦連勝の ようで余裕を感じさせます。良い時代の頃の手紙です。追 伸には、『当地は、比較的物資豊富なれば慰問等も無理に 御送付なさぜらるよう御願い致します。但し、手紙は、唯一 の慰問なれば少なくとも10日に一度位差し出されるよう希 望致しております。…』学校の先生のようで微笑ましいもの がありますが…中隊長なのでしょうか…まさに中隊は、一家 中隊長は、父親、班長は、兄…そんな時代の帝國陸軍を彷 彿させる手紙です。 |
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| こちらも興味深い資料です。歩兵第50連隊 の副官より長野県松本市の市長に宛てた手紙 です。連隊幹部の名簿と渡満先発兵の名簿が 入っておりますので…松本市出身者でしょうか !?歩兵50連隊と言えば、宇都宮を師団本部 とする第14師団に所属し、松本を基点としまし た。第14師団管区の松本連隊区となります。 また同師団内の第15連隊(高崎)と共に歩兵第 28旅団(高崎)に所属しておりました。記録によれ ば第14師団は、南方総軍直轄部隊としてパラオ で敗戦を迎えております。第50連隊は、昭和19 年にテニアン島へ移動し玉砕しています。尚、松 本市長の小里頼永氏の在任期間は、明治40年 7月〜昭和12年8月です。渡満という事を考える と…昭和12年8月に中国河北省の塘沽平定に 派兵されておりますが位置的には、満州とず れますので、昭和2年の山東出兵の時か、大 正2年の3月に中国遼寧省の省都である瀋陽 市から北へ75kmの処にある鉄嶺に出兵して いますので、この鉄嶺が可能性が高いと思わ れます。 |
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| 南支派遣軍の一部隊の歩兵中尉より、福岡の病院の医師で しょうか…宛てられた手紙ですが、達筆過ぎて私には、解読 できません…英文より難解です(苦笑)。4月11日の日付け は、ありませんが…年が記載されておりません。軍事郵便な ので消印もありません。検閲印があるので昭和期の日中戦 争〜敗戦までの間と考えられます。 |
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| 敗戦の12日前に亡くなった戦友の親族に送られた手紙です。 |
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| 時節柄、本文にも本土決戦の文字が出てきます。また 検閲済みの印も見られます。亡くなられた戦友の方とは 中国戦線で騎兵として共に戦われていたようです。 |
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| この履歴証明は、南方総軍の陸軍第四病院の院長(軍医大佐)が敗 戦後の昭和21年5月に上記の履歴の陸軍軍医大尉の方の履歴を証 明したものですが恐らく、復員後にどちらかの病院の勤務医をするの に必要だったのだと思います。上記の履歴では、大阪帝大医学部を 卒業し第一外科に入局した翌年に召集され軍医候補生となり2ヶ月で 軍医中尉となって南方に行かれております。現在と違い、当時は、研 修医制度が無くその代わり医師免許を取得する前にインターン制度で 現在の研修医代わりとしておりましたので医師免許取得時の段階では 、今で言うと研修医の2年間を修了した者と同じと考えます。医師となり 帝大の第一外科教室に1年在籍した後に召集されておりますので軍医 中尉任官時は、今の3年目のドクターと同じようなものだったと考えられ ます。予備士官同様、任官、即、予備役編入、再召集で軍服を脱ぐ間 もなく戦地に赴任しています。 |
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| 左は、未使用の善行証書(昭和)の物。右は、 大正時代の使用されている物です。 |
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| 左は、明治期の一年志願兵の終末試験の合格した証書。 右は、戦死した陸軍憲兵曹長の遺族である父親宛に昭 和19年に弔慰金でしょうか…その証書みたいです。 |
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| こちらは、日露戦争の折の騎兵一等卒の 兵士に出された感謝状です。 |
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戦時資料 弁当箱(川崎栄養食配給所) |
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| かつて全国にあった栄養食配給所でこのような弁当箱で配給されていました。 |
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| 埼玉県川越市に残る旧栄養食配給所です。 この建物は、川越織物市場株式会社の事務所として使用され、 昭和9年に川越市内の中小織物工業者が自分の工場への食 事配給場所として昭和9年から敗戦まで使用されたとの事です。 建物は、1910年(明治43年)に建てられたと考えられ、その後 増築されているそうです。戦時体制の建物という事情がありなが ら、採光面積や換気設備等は最新と思われる国の基準に沿って いたとの事です。かつて全国にあった栄養食配給所も、現在これ だけの形で残っているのは希少であり、平成17年3月、川越市の 文化財に指定されたそうです。 |
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第四艦隊 砲艦”西京丸”・操舵員・褒賞 |
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| 賞状は、海軍一等兵曹村田義三氏に贈られたものです。 砲艦”西京丸”は、日之出汽船籍で海軍に徴用され”特設 砲艦・司令艦”となりました。1942,6,28 トラック島出港 後、パラオ島沖を航行中で明天丸を護衛中、ヤップ島北西 で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。村田一曹は、その 時の操舵員の方です。またこの方が昭和16年海軍検定 褒賞としていただいたのが上記画像の白磁製東郷平八郎 ・服部謹製・大きさ21cm共箱付きです。尚、賞状に記載 された第四艦隊司令長官 井上成美中将は、海軍大将に 登りつめた方です。昭和12年の海軍大臣 米内光政、 海軍次官 山本五十六の名コンビの時の海軍軍務局長だ った方で、リベラル派として有名な方です。本職の前は、 海軍航空本部長、開戦後は、珊瑚海海戦後まで第四艦隊 司令長官を勤め、海軍兵学校校長・海軍次官・軍事参議官 を歴任し、敗戦により予備役。86歳(昭和50年)に病没する まで静かに自宅のある横須賀で隠棲生活を送られておりま した。かっての名コンビの3人は、海軍三羽烏と呼ばれ日米 戦に至る事を反対した事を知らぬ人も少ないでしょう。 |
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| 中将時代の井上大将 |
陸軍士官学校用製図器 |
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| 陸軍士官学校生の製図教程で使用した器具。ケースに 痛みと中身の器具欠品が有ります。…これで様々なエリ ート士官候補学生が作戦図などを作っていたのでしょう か。持ち主だった方の名前が貼ってあります。 |
陸軍予科士官学校用製図器 |
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| 東京 丸善の社名が見られます。 |
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| こちらも別の製図器です。箱も傷みがありません。 |
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| シリアルNo.0067に京の刻印があります。 |
陸軍士官学校の食堂で使われたアルミの皿 |
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戦傷奉公杖 |
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| 高島屋製。元は108センチ位あったように思われます。 使用しやすい用に切るようです。この杖は、長さは86 センチと杖としては普通ぐらいの長さで切断して使われて いたようです。元箱の傷みが目立ちますが杖自体は、キ レイな状態です。特に握り手の部分は、変色も無い美品 です。画像のように”陸軍大臣”の文字と、天頂に ”一三三三”の刻印があります。 |
戦傷奉公杖(箱も證書も全て揃い) |
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| 戦闘で負傷した証として、国から授与され、この杖を 持って入れば公共交通機関は全て無料でした。箱の 中には、杖、杖先のキャップ2種類、證書全てそろっ ています。杖の天頂には、”四二〇”の番号が入って います。木部に大峰山登山などの焼印が3個入って います。木部と金具の接合に、少しガタツキが見られ ます。 |
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| 授与された證書は、昭和14年11月1日の日付が入って います。また傷痍軍人として守る5か条、負傷時の銃弾の 破片が揃っています。銃弾は30口径位の銅に鉛の入っ たもので、骨か何かに当たって砕けた印象があります。 箱の大きさは、93センチ×18センチ、×6センチの大き さです。 |
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軍属の所持品 |
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| 珍しい軍属胸章と認識票、ネームタグ 、不明のバッチ1点 |
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東京九段偕行社調製の被服補修箱 |
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祝応召幟 |
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| 出征が決まると御近所から祝福されながら このような幟と以下のような襷を掛けて見送 られて軍に行きました。実際は、右の幟は、 小さいタイプで全長132cm、幅48cmです。左 のものは、大きいです。長いので画像も3分 割したのを加工しました。 |
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| 出征兵士が見送られる時に身に付けた赤襷です。下は、当時の 模様の画像です。 |
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| 平時においては、成人になった男子が通る儀式であり 大変名誉な事とされる国民の義務の一つでしたが… 戦時では、家族にとって顔で笑って心で泣くのが… 一般的であった事でしょう。…まさに奉公そのものとい う感じしょうか。 |
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海軍出征兵士幟 |
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| こちらは、海軍ですが…大きな幟です。滑川警察署と なっておりますので富山県警の警察官だった方でしょ う。…新兵として入隊すると警官は、かなり辛い目に 合わされたと聞き及びます。また富山から呉まで遠い 旅路になったものと思います。 |
千人針・武運長久 |
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| かっては、兵役により出征が決まると家人の女性が無事の 帰還を祈り千人針の腹巻を用意します。そして街角などに 立ち町行く女性に一針ずつ縫ってもらいます。こうして出来 た千人針は、敵の弾に当たらないと謂れお守り代わりに身 に付ける兵士が多かったようです。この千人針は、腹巻の 内側に【武運長久】に五銭と十銭が縫い込まれております。 四銭(死線)越えて十銭(実戦)に武運長久の祈りが込めら れております。大きさ幅15x長さ140cm・長さ55cmの紐 4本付いてます(正絹製)。 |
その他 |
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| 割烹着に襷掛けのいでたちでお馴染み の各種婦人会のものです。 |
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京都二条女学校学生の防空頭巾 |
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| 戦時中に作られ使用された防空頭巾です。黒い布に、裏地は赤。 いかにも当時の女学生が作ったものという印象です。 |
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| 左側の防空頭巾に”京二条女 1年6組 住所氏名 B型”とあります。こちらは程度が良好です。右側 は、記名がありませんが、同じ布なので、同一人の ものと思われます。記名は無く、破れ、若干の虫食 いもあり戦後の歳月の流れを感じさせます。 |
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| 左は、軍旗用と基本的に変わらない、旗を支える 腰の皮具。在郷軍人の隊旗の箱から出てきたそ うです。これは予備だったようで、殆ど使用された 形跡がありません。右の方は、正剣帯のような タイプで直接、腰に差すタイプです。左の用具は、 肩から吊るし剣帯を通す二重式です。 |
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今回、収集品の虫干しの為、倉庫より一時、出した
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